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人生をもっと生きる

がん克服体験記

「死」を宣告されてから20年 〜いずみの会設立の経緯〜

中山武(いずみの会 元代表)
※中山武 著「論より証拠のがん克服術」より抜粋(一部変更)。文章は2004年9月7日出版時の記載です。

手術前に病院から“脱走”

今から23年前の1981年、私は49歳の時に「胃がん」になった。

定期検診で引っかかり、入院精密検査の結果、「胃潰瘍だからすぐ手術をする」と言われた。私が入院を拒否すると、家族が呼び出され、実は「早期胃がん」だと告知された。

さらに医師から、手術を受けるように何度も勧められたが、私はどうしても切るのが嫌だった。

当時、東京都内で東洋医学系のK先生が代替療法をやっていた。以前、その先生の玄米菜食やビタミンB17療法(アミグダリン療法)などのセミナーを聞いていたので、それをやってみたいと思った。

玄米菜食とは、簡単に言えば「ベジタリアン」のことである。

肉などの動物タンパク質や油ものや糖分などを取りすぎると、がん体質になりやすいので、白米を玄米に変え、副食は野菜類にして、体質を変えることでガンを退縮させようというものだ。

K先生に電話をすると、「すぐに東京に出てきなさい。明日からでも玄米菜食を始めるように」と言ってくれた。

しかし、このことを私が担当の医師に話すと、病院の副院長がやってきて、血相を変えて怒鳴った。

「あなたはなんというたわけだ。そんな食べ物だとか、訳のわからん薬みたいなものでガンが治ると思っとるのか!そんなことを言う医者はペテン師だぞ。それをマトモに聞いているあんたは,たわけちゅうか、バカもんじゃ!」

大きな病院だったが、医師たちは誰も耳を貸さず、彼らを説得することは無理だった。しかたがないので、手術が行われる数日前、私は荷物をまとめてタクシーを呼んで病院を「脱走」した。

すぐ上京して、K先生からビタミンB17を主とした薬剤をもらって持ち帰り、自宅でにヶ月間、玄米菜食を実行した。

以後2年以上、ガンは現れなかった。胃の投資検査も受けたが、異常なしだった。早期ガンが消えたのである。

それで、ガンは治るものなんだと思い、食事さえ気を付けていればガンの再発はないと安心していた。しかし、後で知ったことだが、私の玄米菜食は自己流で、正当なメニューではなかった。

さらに、ガンができる原因の大きなものに、「心の問題」があることも知らなかった。 丸3年がたったころ、地元の病院の検診で、1円玉ほどの大きさの胃がんが発見された。再発だった。

その時も手術を受けたくなかったので、再びK先生に連絡し、先生の紹介で東京・大田区池上の「松井病院」に入院した。そこでK先生のクリニックからビタミンB17を取り寄せて、打ってもらっていた。

2ヶ月ほど経ったころ、二人の医師が正反対のことを言い出した。K先生には「尿検査の結果では,どんどん良くなっている」と言われたが、入院先の担当医からは「どんどん悪くなっているようだから、そのことをカルテに書いておけ!」と怒鳴られた。

びっくり仰天して困ってしまったが、そこで意を決して担当医に申し出て、手術を承諾した。手術は元赤坂にあるM外科病院で行われ、ほぼ全摘出の大手術を受けた。

開腹の結果、ガンはわずか3〜4ヶ月の間に4センチ大に増殖していた。しかも、もっとも怖れられている、「有転移進行性胃がん(スキルス性胃がん)」ということだった。

助かる確率は三万人に一人

胃の摘出手術後、執刀医は家内を呼んで次のように言った。

「奥さん、なぜこんなにひどくなるまで放っておいたのですか?このリンパ節の状態を見ると、ガンは全身に飛び散っていますよ。間違いなく6ヶ月以内に転移が出ます。今のうちに、本人のやりたいことをやらせたほうがいいですよ」

家内は愕然としながら、すがるように質問した。

「先生、助かる確率はどのぐらいでしょうか?」

「ゼロとは言いませんが、まあ、1万人に一人か3万人に一人でしょう」

子供に恵まれなかった家内は、名古屋の自宅にたどり着いた夜、生まれて初めて寝床の中で大泣きに泣いた。

今でも家内は、ガン患者さんの家族にその時の経験を話す。

「布団に入っても数時間寝付けない状態でした。一人だと本当のことを言うと寂しいですよね。病院に預けてある主人のことが心配で。だから千羽鶴を折ったんです。一晩にね、10羽ずつ折っとった。そうすることやっと落ち着けました。いま、うちに2000羽あります」

「主人には両親がいたんです。70代の父と母が。主人をもしガンで亡くすと、こんな親不孝なことはないと。それに、この人を死なせたら、私が二人のあとの面倒を見なければならない。これではいかん。どうやってもこの人を助けないかんという一心で助けました」

こういう家族の後押しもあり、私は「ガンなんかで死んでたまるか!」という一念で、新しい人生のスタートを切った。

もともと負けず嫌いの勝気な性格だった。医者から「ほとんど絶望」と宣告されても、「ああそうですか」と諦める気は全くなかった。

ガン体質を変えよう

医者に見放されたら自分で治すしかない。どんな方法で直すのか?現代医療の西洋医学からは見放された。ならば、「東洋医学」ではどうか?ここに活路があった。

私が選んだ治療法は「免疫力」の強化だった。人間にはもともと病気を治す力が備わっている。いわゆる「自然治癒力」というものを誰もが持っているのだ。

免疫力・自然治癒力でガン細胞をやっつけるのだ。だから、まず自分の体を健康な状態に戻すことからスタートした。

健康に戻すとは、自分の「体質を変える」ことである。先にも述べたが、ガンを生む体質になったのだから、そのガン体質を変えなきゃならないということだ。

さっそく好きなタバコをやめ、「食事」の問題に取り組んだ。胃は90%摘出されている。しかし、薬や流動食などで免疫力が上がるとは思えなかった。

何があっても、自分の歯で噛んで、自分の口から栄養を摂りたかった。

私は外科病院を出たあと、再び大田区池上の「松井医院」に入院した。ここには全国でも1つだけという「食用内科」があった。(現在は閉鎖)

ここでのガンへの対処法は、抗癌剤でも、放射線でもない。「食事療法」と「心のケア」である。

よく噛み、100回も噛んでから呑み込んだ。はじめのうちはすぐ苦しくなり、食べ物が下へ降りて行くまで2時間も脂汗を浮かべながら待ったこともあった。

退院し、名古屋の自宅に戻ってからも挑戦は続けた。時間をかけて、消化器官の限界まで「攻め」た。

胃がないと、空腹感も満腹感もない。食べなきゃいかんという気持ちだけで食べた。健康食品(サプリメント)は使わなかった。栄養は全部自分で噛んだもので、食べたもので補給したかった。

次第に「量」が増え、半年後には普通の人と同じぐらいの食事ができるようになった。そば一杯を普通に食べられた。スピードも一人前になった。

そして、驚いたことに、6ヶ月後には確実に転移すると言われていたガンが転移も再発もしなかった。

松井病院のある先生は「どうなっているんだ!」とびっくりした。

ガンが再発していないことより、胃がほとんどない状態で、普通に食事をしていることのほうが驚異だったようだ。

その後、ガンが再発も転移にもせずに1年2年が過ぎた。自分の体の中の「免疫力」が活発に働いているのだと確信が持てた。

自然治癒力を自分が強化できたのだと実感でき、さらに元気が出てきた。生存の可能性は3万人に1人と宣告されたが、私は自分の力でこうして生き抜いているじゃないか、と。

しかし、前回、3年後に再発したという失敗がある。油断は禁物だった。

「玄米菜食」のメニューがふたたび我流にならないよう、年に1回は上京して、松井病院に「食用体得入院」をした。そうして、自分の食事に誤りがないか点検とチェックをした。これは現在も続けている。

心のケア

「食用内科」は食事の指導だけでなく、患者さんの心のケアも実施している。

私は同内科の部長・長岡由憲先生の次の言葉が忘れられない。

「自分のガンは治ると信じている患者さんは、経過が良く長期延命されますが、治らないと諦めている患者さんは、経過が悪いように思います。」

まさに、いかに心のあり方が重要かという事を指摘している言葉だと思った。「治そう」という意思、しかも「自分で治そう」と言う決意こそが、何よりも免疫力を高めるのである。 体に良い食事をいくらきちんと摂っていても、治すと言う前向きの気持ちがないと、治るものも治らないということなのだ。

私は、負けず嫌いでへそ曲がりだから、「ガン何かで死んでたまるか」と反発し、胃がなくても食べてやると挑戦した。この前向きの気持ちが結局は免疫力を上げたのである。 長岡先生は、この免疫力は自然治癒力を低下させる大きな要因に、心の動きがあることも指摘している。

「心のケアと言うのは、患者さんとお話をして、病気や病気になった自分を客観的に理解してもらい、不安や焦りを少なくすることです」

「ストレス」という言葉がある。不安や焦りを抱えている心の状態を、私は「ストレス」と解釈しているが、この社会に生きていてストレスがないと言う人は皆無だろう。 職場でも家庭でも、仕事の充実や人間関係から来る葛藤は避けられないのが普通だ。しかしそれを継続させると、ガン発病の引き金になり、ガンを悪化させる要因になるということではないだろうか。

私にも思い当たることがある。私は自営で家電販売業をしていた。仕事は好きで、根はマジメで負けず嫌いであるから、寝食を忘れてのめり込むようなところもあった。当然ストレスもためていたはずである。

ガンが再発したときは、親族との葛藤があった。相手に迷惑がかかるといけないから詳しい事は書けないが、身内との摩擦は簡単に縁を切ることができない間柄だけに、ストレスの度合いも強くなるものだと思う。

当時は、まさかそういうストレスがガン再発の原因になるとは思っていなかったから、これは私の勉強不足の報いであると反省している。

治療と仕事の両立

私のガンとの戦いは長期にわたったが、それはもちろん覚悟の上だった。10年以上経ってからガンが再発する人もいるのだ。

私はまず3年を目標に、次に5年を持つ後に再発防止を心がけ、心の改善や食事の改善に努力した。

家電販売の事業は縮小せざるを得ないくなった。以前は従業員が数人いたが、ガン闘病生活に入ると雇えなくなり、家内と2人だけの経営となった。

思いきり仕事ができない時期は、やはりつまらないと思った。商人だから働いて稼ぎたかった。しかし私は無理をしないことにした。生活できるだけの収入があればよしとした。 一家の働き手である男性が、仕事とガンの両立をどうさせるかという問題は誰もが苦労するところだろう。しかし私は迷わずガンの治療を優先させるべきだと思っている。何しろ命がかかっているのだから。

こんな患者さんの例がある。

あと2年で勤め先を定年退職と言う男性がいた。心と体質の改善が順調に住んでいた頃、彼は「栄転することになったから何とかその仕事をやりたい」と相談に来た。

私は「あなたの今の体では無理だよ」と引き止めた。しかし彼は次のように言って栄転先に行ってしまった。

「いやあ、みんなが手伝ってくれそうだから私は何もやらんでいいような態勢になっているようだから」

その1年半後、あと半年で定年という時に、残念ながら彼は他界してしまった。

職場の人の義理もあったろう。本人に働きたいという希望もあったと思う。そんな彼の気持ちはわかるし、非常に残念なケースであるが、やはり命と治療を優先して考えて、仕事のことは割り切らなければならないのではと思った。

家族の協力は必要不可欠

また家族の協力と言うものも必要不可欠である。毎日一緒に暮らしていけるだけに、その存在が患者さんの免疫力に与える影響は極めて大きい。

私は自営業だから、家内の力がガンの治療にも仕事にも大きく役立ったことを認めないわけにはいかない。

その頃の苦労を、家内は今でも会を訪ねてくる人などに、次のように話している。

「名古屋の夏は暑いのですが、特に暑い年がありまして、その時はこの人、まだ病気上がりで、5年経つか立たないかというところでした。その時私は、エアコンをね、7月末からお盆までに、31台売ったんですよ。それを2人で取り付けやったんですよ。取り付ける時間だけ店を閉めて、私、手伝いました」

「この人はランニングシャツだけでね、背中に玉の汗出して。それをタオル持ってきて拭いて。そしてエアコンをね、あちこちへ持っていって、吊ったり、みんな私、手伝ったんです。それでもガンが再発しなかったです。食事をちゃーんとやってましたからねえ」

私の免疫力が上がったのは、1つには家内の応援があったからである。家族や身内の協力は、絶対必要条件だとつくづく思ったものである。

現在私は各地で講演活動をしているが、もし夫婦間で、ガンなんて、切って治したんだから文句言わずに仕事を手伝え、と言う伴侶がいたら、夫婦別れをしてでも自分の体を直さんとだめですよ」と言う話もしている。

いずみの会設立

胃の摘出手術から5年が経過した。ガンの再発はなかった。もっとも怖れられている「有転移進行性胃ガン」から生還できたのである

1990年2月、小松康弘氏が新聞で「がん患者と家族の会」設立の呼びかけに、私はガン闘病の体験を役立てたいと思い、その会に参加した。2年後に、小松氏から私がバトンをもらい、会長になった。

この5年の間にも、ガンをめぐる状況は悪化の一途をたどり、治る可能性のある人たちが、その情報を知らないばかりに次々と倒れていった。その状況を放っておけなくなったからである。

自分の経験を知ってもらうことで、1人でも多くの人の命が救われいればこんなに嬉しい事は無い。

また「ガンは治るのだ」という人様を励まし、助言することは、とりもなおさず私自身の免疫力をさらに上げることにもつながる。喜びと前向きな姿勢とガンと戦う積極性が免疫力を上げないはずはない。

私が「いずみの会」を立ち上げるきっかけとなったエピソードがあるので、ここで紹介したい。

ガンの常識を打ち破ろう

「あなた!ここはねぇ、あのような元気な人が来る場所ではないの。他の人に失礼だから、すぐ帰ってください!」

ある会場で、ガンを経験した女性の講演を聞こうとしている時だった。最前列に座っていた私はいきなりその女性から大声で叱りつけられたである。

「いや私も実は元ガン患者です。5年前に医者から絶対助からないと言われた進行性胃ガンだったんですよ」

慌てて弁明する私に、彼女は急に態度を変えていった。

「そうそれは失礼。ちょうどいいわね。私の次にあなたがここで話してちょうだい」

あまり血色の良くない痩せた女性だった。ガンを克服したとしても健康とは言い難い、その顔色が気にかかった。

やがて彼女の講演が終わり私が話す番となった。人前で話すのが苦手な私だったが、仕方なく立ち上がって前に進み、演壇から振り返った。その瞬間、私は大きな衝撃を受けた。

さほど広くもない会場だったが、超満員で、ガン患者さんたちは80人ほどはいたろうか。その全員と対面した時、たとえようもない悲壮感が私を襲ってきた。

何しろ暗かった。絶望のかたまりであった。通夜でも葬式でも、こんな暗さは体験したことがなかった。そのショックの反動だろうか、私の口から大声が飛び出した。

「皆さん、この私の健康そうな立ち振る舞いを見て、医者から絶対に助からないと宣告されたガン患者とは思えないでしょう?ガンは風邪みたいなものなんです。今では誰もがかかる病気であり、しかも自分の免疫力が低下したためにかかった病気なんですよ!」

しゃべった自分が驚いた。すごいことを言ってしまった。だがそのひと言がその後の私の生き方を決めてしまった。

よしガンは死病だという「常識」を打ち破ろう、と

その日から、寝ても覚めてもガン一色の人生が始まった。しかし、私一人の体験だけで、「健康を取り戻しました。ガンは治る病気です」と訴えても、説得力に欠けるのは目に見えている。

だから、ガンを自力で克服した患者さんたちを急増させること以外に「ガンは治せる」と言う新しい常識を浸透させる方法はないと思った。

医師やその道の専門家を訪問し、アドバイスを受け、知識をもらった。元がん患者の体験談を聞き、情報を収集した。本を読み漁って勉強した。

孤軍奮闘の連続だった。多くの医者に馬鹿にされ、罵られ、頭から信じてもらえなかった。常識の壁は極めて堅牢だった。

前述したが、その常識とは次の一言につきるだろう。

「われわれ専門家が国の総力を挙げて研究し取り組んでいても治せないのに、いくら治った人がいるからといって、素人さんの集まりで治るわけがない」

こういう考え方が、医師だけではなく、一般の人にもがん患者さんにも広く浸透しているのである。

こつこつと話して回るしかなかった。1人でも多くのがん患者さんや体験者に声をかけ、入会してもらい、新入会者と交流してもらい、治した実績を少しずつ積み上げていくしかなかった。

はじめは少数のガンの患者さんたちが寄りあい、それぞれ個々が主体となって手探りで草の根からスタートした会が、5年後、「いずみの会発足 5周年記念大会」にこぎつけたあたりから花が咲いてきた。

大会の模様はNHKテレビで放送され、さらに1999年には、これはおそらくわが国初だと思うが、「ガンは治る」と標榜している「いずみの会」がNPO法人として認定され愛知県から認定証書を交付された。

認定証書に記載されている「いずみの会」の目的は次の通りである。

この法人は、ガンの体験者たちが成功し、自負しているところのガンは治るの理念をもとに、がんの患者及び体験者が主体となって、ガンに悩み苦しむ患者やその家族または、その関係者ならびに一般社会の人たちに対して、がん克服に関する勉強と交流の場の提供と、その活用を通じてガンの克服支援と、ガン撲滅の市民活動を行い、ガンによる死亡者の急減化を図るとともに、世のため人のために貢献することを目的とする。

その後活動の輪は急速に広がっていった。

いまでは会員数500人超という、おそらく日本で1、2を争う大きながん患者さんの組織に成長した。

もちろん、まだまだ常識の壁は厚く、二重にも三重にも私たちの心を取り囲んでいる。「いずみの会」はようやくその壁の一角に穴を開けたこと言う程度に過ぎないのである。

それでも「ガンは治らないもの」という現代の医療会の常識を覆す、その糸口にでもなればと願っているところだ。

続きは、中山武著「論より証拠のがん克服術」でお読みいただけます。